何も無い里山?と宝の山


本日は森林ルネサンス活動へのご参加ありがとうございます。この活動の輪がこの公園の外へも 広がっていくことを期待し、簡単ですが「プロローグ」を書いてみました。お暇なときに一読くだされば 幸いです。


  晩秋のブナ林 (手付かずの自然がある)
 ある日、私の知り合いが「xx湿原に行ってきたよ」 と言うので「どうだった?」とたずねると、 「何も無かった」と答えが返ってきました。 その湿原は国定公園に指定されており、きっと 観光地的な施設を期待されていたのでしょう。 そこで私は思わず「何も無いからいいんだよ」 と言ったのです。

 私は以前から「何も無いこと」に価値がある。 と考えています。たぶんご理解いただけるとは思いますが、 「自然」以外のものが何も無いということです。 手付かずの自然には人に畏敬の念を感じさせる何かがあります。


 一方「里山」はどうかと言えば、「里山」を取り巻く 環境には自然以外のものもたくさん存在します。 それでもカタクリやツツジの咲く里山などを眺めると、 ここには「人も含めた自然」以外のものは何も無いのだと実感するのです。
 「里山」は作るものではなく、人の営みにより自然に出来上がった生態系 であることを忘れてはいけません。ですから現代における「里山の復活」 は、あくまで擬似的なものであるという認識を持つ必要もあります。

 ここでもう一度「何も無いということ」を見直して欲しいのです。 現代の里山は、従来からの「生活の森」+「癒しの森」だと思うのです。 牛歩であってもかまいません。自らの手で整備し利用してみましょう。 何も無いことに価値が見えてくるはずです。何も無いと思っていた里山が「宝の山」 に見えてくるはずです。

 里山の「森」は私たちが想うような「森」に育つと思うのです。 すべては想うことから始まります。こんなことを想いながら森を歩いてみましょう。 不思議な安らぎを森の中で感じることができるはずです。
 自然破壊が進んでいると言います。けれども私たちが暮らしている身近な環境には、 まだまだたくさんの「すばらしいステージ」があることに気付いて欲しいと思います。
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 森を歩く (リョウブの樹を見上げるとキラキラ輝いている)

東広島市森林ルネサンス「下刈十字軍」資料 1998/6/7  森林ルネサンス世話人会 広島県森林インストラクター 林 浩三
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